高田富士

高田富士

安永9年(1780年)、富士講先達(ふじこうせんだつ)の日行青山(高田藤四郎)の築いた塚で、江戸最古の富士塚が高田富士。もともとは、現在の早稲田大学構内にありましたが、昭和38年、早稲田大学の拡張に伴って水稲荷神社とともに甘泉園公園横(新宿区西早稲田3丁目)に移っています。江戸八富士のひとつに数えられています。

富士講をつくった高田藤四郎が築いた江戸の富士山

高田富士
『江戸名所図会』に描かれた高田富士

江戸時代までは、高田富士のある水稲荷神社は現在の早稲田大学の構内に位置し、宝泉寺が別当寺となっていました。
現在の早稲田大学キャンパスの大部分は、明治初年の廃仏毀釈まで実は宝泉寺の寺領だったのです。

高田藤四郎は、江戸に「身禄同行」という講を組織していますが、これが後に大ブームとなる富士講のルーツです。
「富士塚(高田富士)に登拝すれば、富士山の登ったのと同じ御利益がある」と喧伝(けんでん)され、江戸時代には6月15日〜18日の間に参詣が許されていました。

現在も高田富士は伝統を受け継ぎ、毎年、海の日(7月第3月曜)とその前日の日曜の2日間だけ登拝が許されています。

江戸時代には、品川富士、千駄ヶ谷富士、下谷坂本富士、江古田富士、十条富士、音羽富士、高松富士の7ヶ所の富士塚をめぐる「江戸七富士参り」も人気でしたが今もこの江戸七富士は現存しています。
明治時代にはこの江戸七富士に、高田富士を加えて江戸八富士と呼ばれていました。

文化・文政の頃には江戸八百八町に「江戸八百八講」があったといいますから各町にすべて富士講が組織され、江戸ばかりでなく、関東一円はもとより、遠く尾張国(愛知県)あたりまで、富士講が生まれ、富士塚が築造されました。

高田藤四郎は、当時、高田富士を見守る位置にあった宝泉寺に葬られています。

江戸切絵図に見る 高田富士

高田富士
高田富士
名称高田富士/たかだふじ
所在地東京都新宿区西早稲田3-5-43
関連HP水稲荷神社公式ホームページ
電車・バスで東京メトロ東西線早稲田駅から徒歩10分。または、都電荒川線面影橋から徒歩3分
駐車場なし/周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ水稲荷神社 TEL:03-3200-4621/FAX:03-6690-2723
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
音羽富士(護国寺)

音羽富士(護国寺)

東京都文京区大塚5丁目にある真言宗豊山派の大本山が護国寺。5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院(3代将軍・徳川家光の側室)の願いから、桂昌院の祈願寺として創建された寺ですが、境内には文化14年(1817年)に築かれた富士塚が現存し、音羽富士と通

鉄砲洲富士(鐵砲洲稲荷神社)

鉄砲洲富士(鐵砲洲稲荷神社)

東京都中央区、平安時代の承和8年(841年)創建と伝わる古社、鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)の境内にあるのが鉄砲洲富士。江戸時代中期に富士講は隆盛し、江戸八百八町それぞれに講中が組織され、50ヶ所ほどの富士塚が築かれましたが、中

千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)

千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社)

東京都渋谷区千駄ヶ谷1丁目にある鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ/正式名は八幡神社)の境内に築かれている富士講の富士塚が千駄ヶ谷富士。寛政元年(1789年)築造という歴史ある富士塚で、都内に現存する最古の富士塚として東京都の有形民俗

江古田の富士塚

江古田の富士塚

東京都練馬区小竹町、江古田浅間神社(茅原浅間神社)の境内に築かれている高さ8m、直径30mの富士塚が江古田の富士塚。江戸時代後期の天保10年(1839年)、下練馬村、中新井村、中村の富士講の講中で構成される小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)

水稲荷神社

水稲荷神社

941(天慶4)年、鎮守府将軍・俵藤太秀郷朝臣が、旧社地(現在の早稲田大学9号館法商研究棟)の富塚の上に稲荷大神を勧請したのが創始という古社、水稲荷神社。元禄15(1702年)、大椋(おおむく)の木の下に霊水が湧出し、眼病に効能があったこと

高田富士

関連記事

よく読まれている記事

ABOUTこの記事をかいた人

アバター画像

日本全国を駆け巡るプレスマンユニオン編集部。I did it,and you can tooを合い言葉に、皆さんの代表として取材。ユーザー代表の気持ちと、記者目線での取材成果を、記事中にたっぷりと活かしています。取材先でプレスマンユニオン取材班を見かけたら、ぜひ声をかけてください!